
「今、初めて認識しました」
62歳の森慶一郎は、自分の言葉に虚を突かれたような表情を浮かべた。
一人の独立した経営者となった今、古巣・東芝についての思いを問われ、「東芝人としての誇りが今もある。おそらく一生」と答えた直後のことだ。
1985年、株式会社東芝に入社。「この会社で勤め上げる」。
昭和の時代、大企業に入社するとはそういうことだった。しかし、森は定年を待たず56歳で転身し、60歳で起業するという、本人すら思い描いていなかったキャリアを歩むことになる。
彼を突き動かしたものの正体とは。
「惚れ込んだ技術」を世に送る使命感
森のキャリアの原点は、技術への圧倒的なリスペクトにある。
「東芝は世界初、日本初ということに異様な執念を燃やす、不思議で多様な人材の宝庫だった」と森は振り返る。
若き日の彼は、海外セールスとしてブラウン管や畜電池を世界に売り歩いた。
20世紀末、欧州の携帯電話メーカーに畜電池を売りに売った時期が、営業としてのピークだった。しかし、そこで一つの限界に突き当たる。
「セールスが物に触れる時、すでに勝負はついている。その前の企画や技術開発に関与しなければ、大きなトレンドは作れない」
2001年、21世紀の幕開けとともに、森は戦略マーケティング部門へ自ら志願し、異動する。
後に自らを称することになる「新規事業おじさん®」が爆誕した瞬間だった。
最大の挫折と「背番号」の喪失

森が心血を注いで取り組んだのは、キヤノンとの共同開発による次世代ディスプレイ「SED」事業だった。
「この技術を自分が世に送り出す。それが東芝人としての使命だ」
そう信じて疑わなかった。
しかし、事態は暗転する。知財問題をきっかけに、事業化を一歩手前で断念。43歳の時だった。
「ビジネスマンとしての最大の挫折でした」
この事業に4年を費やしていた。大組織において、肝煎りのプロジェクトが潰れることは、単なる失敗以上の意味を持つ。
森はそれを「背番号を失う」と表現した。
打席に立つ権利を失い、主流から外れる。その後、東芝を去るまでの10年以上、彼は悶々とした時間を過ごすことになる。
さらに追い打ちをかけたのが、2015年からの東芝の経営危機だ。「会社がどうなるかわからない。出口が見えない」54歳。
役職定年を目前に控え、森は人生で初めての転職活動に踏み切った。
2年間の地獄と、拾ってくれた「商社」
現実は甘くなかった。
大手一筋に勤め上げた50代。世間からは「プライドが高くて使いにくい」という色眼鏡で見られた。エントリーを繰り返し、エージェントに断られ続ける日々。
「生まれて初めて、このまま目が覚めなかったらどんなに幸せだろうと思った」
心が粉々に砕け散るような2年間の活動の末、手が挙がったのが総合商社・丸紅の子会社だった。
56歳、顧問として、電機メーカーから商社への越境。
そこは「物」を背負うメーカーとは違い、純粋に「人」と「個」がぶつかり合う異文化の世界だった。
「橋をかける」専門家として
やがて森は、自分でも気づいていなかった自身の強みに気づかされる。 メーカーの論理と商社の論理。両方を知る自分だからこそ、双方の立場が客観的に見えるのだ。
「外に出たからこそ、東芝の良さがわかった。そして、外に出たからこそ自分の貢献をブーストできる」
丸紅での5年間、森は社内SNSで「新規事業おじさんのつぶやき」を300回連載し、部署の垣根を超えて若手の事業化の相談に乗った。そこで確信したのが、「橋をかける」という仕事の希少性だ。
「新規事業がうまくいかないのは、専門家がいないからではない。自分たちの言語と、進出先の言語を翻訳し、橋をかける人がいないからです。難しいその役割を、実体験として乗り越えてきた者として担おうと」
森は、異なる文化、異なる時間軸を持つ組織を繋ぎ、自走するまで寄り添うことを決める。
経営者へと生まれ変わる「修行の2年間」

森、60歳。丸紅での5年間で得た「新規事業に橋をかける」というコンセプトで「合同会社ヘキサゴンブリッジ」の起業を果たす。いわば、シニア起業だ。
「最初の1年は、正直サラリーマンの延長でした。けれど、大口顧客の契約終了という現実に直面し、そこから本当の意味で経営者に生まれ変わるための修行が始まったんです」
お金が溶けていく感覚、何から何まで自分一人で決める孤独。理屈ではわかっていた「経営」の厳しさが、牙を剥いて襲いかかってきた。地道な営業活動を繰り返し、顧客ポートフォリオを組み直す。その過程で、39年かけて染み付いた「サラリーマンの習い性」を、身を削るようにして剥ぎ取っていった。
「変われないということを、この2年で学びました。だからこそ、何度も危機に直面しながら必死に自分を変えてきた。冷や汗を流し続ける修行の時間です」
この過酷な2年間を経て、現在の「ヘキサゴンブリッジ」の輪郭はより強固なものになった。森は今、ペロブスカイト太陽電池などの先端技術を社会実装するために、メーカー、ゼネコン、商社といった異業種間の交渉を進めている。
かつて東芝で技術に惚れ込み、商社で人に揉まれ、そして起業家として崖っぷちを歩んできた自分にしかできない「橋」の架け方がある。そう森は信じて奔走する。
「みんな会社が大好きなんです」
森は、東芝の「外へ出る」という決断をした。当時、自ら打って出た人間は全体でも2割に満たなかったのではないかという。森の目に彼らはどう映っているのだろう。
「残るという選択をした人のことを、ぶら下がっているとかしがみついていると表現されることがありますが、それは違うんです。電機メーカーの人間は、会社が大好きなんですよ。他には行きたくないんです」
今はもう、語りにくい言葉となった「愛社精神」。昭和から平成を駆け抜けた彼らにとって、会社とは、仲間と共に技術を磨き、世界を変えようとした「人生そのもの」だった。
森自身は、その愛する場所から離れる道を選んだ。しかし。
「東芝人であることは、私のコア(核心)の一つなんです。会社を離れても、その会社で培ったものを、会社を通さない形で世の中に還元する道がある」
かつて「この会社で勤め上げる」と疑わなかった若者は、今、独立した一人の「東芝人」として、社会と未来の間に橋をかけようともがいている。修行の果てに掴み取った確信と、かつての時代が育んだ、愚直な情熱をその胸に抱いたまま。
プロフィール
森 慶一郎(もり けいいちろう) 1985年東芝入社。海外営業、新規事業開発を経て、56歳で丸紅グループへ転職。60歳で起業し、現在は合同会社ヘキサゴンブリッジ代表取締役として、新規事業開発の支援に奔走する。自称「新規事業おじさん®」。
