
対談:株式会社プロ人材機構 代表取締役 高橋啓×株式会社松井商店(cotton松井)取締役 松井俊介
フルタイムの会社員でありながら、ハーフマラソン63分台、フルマラソン2時間15分台という驚異的な記録を持つ松井俊介さん。2023年のホノルルマラソンでは日本人1位(総合5位)に輝き、名実ともに「日本最速の市民ランナー」の一人として注目を集めています。
その走りを支えるのは、日々の通勤時間を練習に変えるストイックかつ合理的なスタイル。現在は、創業100年を超える家業であり、松井さんが承継する予定の「株式会社松井商店(ブランド名:cotton松井)」の取締役として、経営者×ランナーの「デュアルワーク」に挑んでいます。
今回は、プロ人材機構代表・高橋啓が、松井さんのランニング哲学と、そこから見える事業承継への想いを深掘りしました。
♯事業承継 ♯経営者 ♯ランニング
「通勤ラン」は制約ではなく、最高のソリューション

写真提供/松井俊介
高橋: 松井さんといえば「通勤ランナー」として有名ですが、そもそもなぜ通勤時間を練習に充てるようになったのですか?
松井: 理由は単純で、「時間がなかったから」です。フルタイムで働きながら競技レベルを維持するには、家族との時間や睡眠を削るのではなく、毎日必ず発生する「移動時間」を練習に変えてしまえばいいと考えました。
高橋: 片道15km〜20kmを走ることもあるそうですね。
松井: はい。朝30キロ走って出社することもありますが、会社の皆さんはもう慣れっこで「あ、今日も走ってきたんだね」くらいの反応です(笑)。僕にとって通勤ランは、単なる移動手段ではなく、仕事と競技のスイッチを切り替える儀式のようなものです。走ることで脳が活性化し、出社した瞬間からクリアな頭で仕事に入れます。
絶望の淵で見つけた「走る楽しさ」という原点

高橋: 素晴らしい記録をお持ちの松井さんですが、学生時代にはかなり苦しい経験もされていると伺いました。
松井: そうですね。中学で貧血を経験し、それを乗り越えて高校では強豪校に進みましたが、3年生の時に「オーバートレーニング症候群」になってしまったんです。練習のやりすぎで自律神経を崩し、脳が筋肉にストップをかけてしまう。県大会の優勝候補と言われながら、結果はビリ。あの時の絶望感といったら……競技場の外の芝生で大の字になって、「もう戻れないんだな」と。応援に来てくれた両親と顔を合わせた瞬間、涙が止まりませんでした。
高橋: その後、大学でも苦労されたそうですね。
松井: 東海大学に陸上推薦で進学しましたが、今度は「ぬけぬけ病」という、足に力が入らなくなる原因不明の症状に悩まされました。結局、2年生の終わりに部活を辞めることになったんです。正直、その時は記録が出ないことで陸上が嫌いになってしまって、一度少し離れようと思いました。
高橋: そこから、どうやって今の「最速市民ランナー」にまで戻ってこれたのですか?
松井: 一度離れてみて、改めて「走ることの楽しさ」を再認識したんですよね。無理に高い目標を追うのではなく、自分が楽しければいいじゃないか、と。そうして再び走り始めたら、気づけば誰よりも長いマラソン人生になっていました。 実際、僕の周りを見ても、高校や大学、実業団で素晴らしい記録を出した同期たちは、30歳前後でほとんど引退してしまっています。やり尽くして燃え尽きてしまう人が多いんです。僕の場合は学生時代が不完全燃焼だったからこそ、逆に今も「楽しい」という気持ちで走り続けられている。それが今の結果に繋がっているんだと思います。
100年続く「cotton松井」を背負う覚悟

高橋: 現在、松井さんは家業である「株式会社松井商店」の取締役として、お父様から事業を引き継ぐ準備をされています。この「cotton松井」は松井さんが承継される会社ですが、どのようなお仕事なのでしょうか。
松井: 大正時代から続く生地屋がルーツで、現在は自社デザインの生地を使ったエプロンやワンピースなどを展開しています。うちの命は、なんといっても「柄」です。浜松の染工所で染めているのですが、日本の綺麗な水でなければ出せない色がある。コストを抑えるために海外で染めてしまえば、品質が落ちて、築き上げてきた歴史に泥を塗ることになります。そこだけは絶対に譲れません。
高橋: 1年目から他社を経験せずに家業に入られたのは、やはり承継を意識してのことですか?
松井: はい。松井家は代々病気のリスクを抱えてきた家系でもあり、父が元気なうちに早く仕事を教わっておこうと考えました。「甘えている」と言う人もいるかもしれませんが、僕にとっては家業を守ることが最優先でした。
高橋: 後継者としてのプレッシャーは感じますか?
松井: もちろん感じます。でも、僕は楽観的なんです(笑)。「どうにかなるだろう」と思える強さは、マラソンで培ったかもしれません。幸い、取締役として従姉妹が一緒に働いてくれています。彼女は経理やECサイトの運営に強く、僕にはない視点を持っている。二人でお酒を飲みながら「将来どうしていこうか」と語り合えるパートナーがいることは、大きな救いです。
デュアルキャリアが生む「想定外のチャンス」

写真提供/松井俊介
高橋: 仕事とランニング、お互いにどのような影響を与え合っていると感じますか。
松井: 驚くほど直結しています。以前、ホノルルマラソンで日本人1位になった時、現地の新聞に載ったのですが、その時の記者がデザイナーの方で、「うちの生地をハワイで展開しませんか」という話に発展したことがありました。また、新規の営業先で「いい体格だね」という雑談からマラソンの話になり、実績を話すと「そんなに根性があるなら取引しよう」と決まったこともあります。ランニングが、ビジネスの扉を開く鍵になっているんです。
高橋: まさにデュアルキャリアの醍醐味ですね。
松井: はい。それに、経営者にはランナーが多い。一人で自分と向き合う時間は、ビジネスのアイデアを練るのにも最適です。早寝早起きになりますし、何より気分がスッキリして、仕事のストレスも走り出せば吹き飛びます。
「楽しさ」の先にこそ、真の結果がある

高橋: 今後、プロ人材機構は、地方の事業承継支援を強化していきます。後継者の方々に伝えたいことはありますか。
松井: 「等身大でいい」ということでしょうか。世の中はタイパやコスパを求め、最短距離で結果を出そうと急かしがちです。でも、あえて遠回りをする方が長く旅(人生)を楽しめる。 マラソンも同じです。タイムだけを追いかけて自分の首を絞めている市民ランナーの方をよく見かけます。目標が高すぎて、達成できずに落ち込んで、走るのが嫌になってしまう。それは本当にもったいない。僕は「完走するだけで、走り出そうと決めただけで拍手ですよ」と言いたいんです。
高橋: 高橋啓としても、その「頑張りすぎない、でも一生懸命やる」という価値観には非常に共感します。
松井: 走るのが好きだからこそ、伸びる時期がある。嫌いになったら止まってしまう。だから僕は、どんなに大きな大会の前でも「楽しむこと」を忘れないようにしています。2026年3月の香川マラソンでは優勝を狙える位置にいますが、勝ちにこだわりすぎて景色や応援を楽しめなくなったら負けだと思っています。
高橋: お仕事のビジョンも、その延長線上にありますか。
松井: そうですね。マラソンと同じで、商売も短期的な数字ではなく「細く長く」続けていくことが大事だと思っています。100年続いてきた「cotton松井」の信頼を大切にしながら、自分が作ったものを誰かが喜んで着てくれる。その「ものづくりの楽しさ」を噛み締めながら、一歩ずつ進んでいきたいですね。

cotton松井のエプロンをつける二人。母の日のプレゼントにぜひ。
編集後記:高橋啓の視点
松井さんとお話しして感じるのは、その「しなやかな強さ」です。エリート街道を突き進むのではなく、挫折を経て「楽しさ」という原点に立ち返ったからこそ、30代半ばにして今が一番速い。この「楽しみながら追求する」姿勢は、プレッシャーの大きい事業承継という山を登る後継者にとって、最も必要なマインドセットではないでしょうか。松井さんの挑戦は、地方企業や事業承継の未来を明るく照らす光になると確信しています。
Interview&Photo/Mihoko Matsumoto