
吉本興業で35年間にわたり宣伝広報の最前線に立ち、ダウンタウンらを輩出した養成所「NSC」の設立、月刊誌『マンスリーよしもと』の創刊、そして数々の謝罪会見を取り仕切ってきた竹中功さん。「謝罪マスター」の異名を持つ彼は現在、その類まれなコミュニケーション術を活かし、全国の刑務所で受刑者に向けた「社会復帰支援」の授業を行っています。
なぜ、エンターテインメントのど真ん中にいた男が、塀の中で教壇に立つことになったのか。
そして、道なき道を開拓し続けてきた彼を形作ったものとは?激動の時代を生き抜くための「仕事論」と、竹中流「プロフェッショナルの定義」を伺いました。
目次
1 「何でも屋」が最強のキャリアを作る
2 伝説の面接と「マーケット」への適応
3 学び直し、そして「自分のマネージメント」へ
4 謝罪とは「未来の関係性」を作ること
5 刑務所の教室で教える「I love me」
6 竹中功にとって「プロフェッショナル」とは
「何でも屋」が最強のキャリアを作る
──竹中さんのキャリアは、吉本興業で「宣伝広報室」を立ち上げることからスタートしています。当時は社内に広報という部署すらなかったそうですね。
竹中: そうです。1981年に入社してすぐ、役員に「これからは広報が必要だ。お前、つくれ」と言われたのがすべての始まりです。
当時の吉本はまだ昔気質の興行会社で、上場企業ではありましたが、企業としての体をなしていなかった。「広報って何ですか?」と聞いても誰も教えてくれない。だからこそ、「ないものをつくる」しかなかったんです。
──普通なら途方に暮れる状況ですが、竹中さんはどう動いたのですか?
竹中: 僕は逆に「ラッキーだ」と思いました。前例がないということは、「何をやっても正解になる」し、「失敗しても比較対象がないからバレない」からです(笑)。
そこで創刊したての月刊誌『マンスリーよしもと』の第3号から編集長になりました。今で言う「オウンドメディア」です。マスコミが取り上げてくれないなら、自分たちでメディアを持てばいい。編集長もカメラマンも記者も、全部自分でやりました。
──そうした「何でもやる」姿勢が、今の竹中さんを作ったのでしょうか?
竹中: 間違いなくそうですね。僕を「今の自分」にした最大の要因は、入社直後からやらねばならないミッションは全てこなし、誰かに頼まれたわけでもないものに手を出す「何でも屋」として揉まれた経験です。
広報だけでなく、映画製作、劇場プロデュース、新ビルのコンセプター、さらには河内家菊水丸のマネージャーまでやりました。
専門職として一つのことを深めるのも大事ですが、「境界線を超えて仕事を拾いに行く」ことでしか見えない景色があります。だって一つの会社に勤めているわけですから、そこの中なら何をしてもいいでしょう。
「それは私の仕事じゃありません」と線を引いた瞬間、成長は止まる。頼まれたら「やったりますわ」と引き受けて、走りながらやり方を考える。その「無茶振りへの対応力」が、結果的に僕の最大の武器になりました。

伝説の面接と「マーケット」への適応
──仕組みづくりといえば、お笑い養成所「NSC」の設立も大きな功績です。
竹中: 入社半年目に「タレントの養成学校をつくれ」と命じられました。スタッフは今も心の師匠と呼べるT課長と二人だけです。当時は「芸人は師匠に弟子入りして育つもの」という徒弟制度が絶対。社内からは「学校なんかで芸人が育つわけがない」と猛反発を受けました。実際は僕もそう思っていました。
でも、会社を大きくするには、工業製品のようにシステム化して人材を育成する場所が必要だと腹を括ったんです。
──結果的にNSCは大成功しました。勝因は何だったとお考えですか?
竹中: 徹底的に「マーケット(お客さん)」に合わせたことです。
当時の漫才は、まだ「大阪城は誰が作った?」「竹中工務店じゃあ」といった、年配客向けのネタが多かった。でも、1980年代に入って客層が若返り、女子高生やカップルが劇場に来るようになっていた。彼女たちに工務店の話をしても通じません。
僕らは素人集団だったからこそ、「今のお客さんは何にお金を払っているのか」を素直に見ることができた。「お客さんの近くに行く」ことで、時代に合った笑いを提供できたんです。
──そのNSC1期生として、ダウンタウンのお二人がいらっしゃいます。
竹中: 入社10ヶ月目、面接官として彼らに会った時のことは鮮明に覚えています。他の志望者が大声で自己アピールする中、彼らだけはボソボソと喋って、やる気があるのかないのかは分からない、どこか冷めた目でこっちを見ていた。その「違和感」が強烈に光っていたんです。
彼らのネタはとがっていました。「そんなところをネタにするのか!」という驚きがあった。一方的に芸を見せるのではなく、「俺ら、これがオモロイと思うねんけど、どう?」と観客と感覚を共有しようとしていた。「ダウンタウンだけは違う」と肌で感じました。
面接で最後に僕が聞いたのは「君ら、月謝払えるか?」だけ(笑)。「はい」と答えたから「合格!」と。ビジネスでも採用でも、データや論理は大事です。でも、最後は自分の「直感」や「肌感覚」を信じることが重要です。
もしNSCの開校が彼らの高校卒業時から1年遅れていたら彼らは就職していたかもしれない。1年早くに出来ていたら松本あたりは「つまらん奴を先輩とは呼びたくない」とか言って、NSCの扉をノックしていなかったかも知れません。タイミングと直感が、時代を変えるきっかけになりました。
学び直し、そして「自分のマネージメント」へ
──竹中さんはお忙しい中、38歳の時に大学院も修了されていますね。
竹中: はい。阪神・淡路大震災があった1995年に、同志社大学大学院の総合政策科学研究科に入学し、何とか2年で修士課程を修了しました。
現場での経験則だけでは、いつか限界が来ると思ったんです。「今、社会で何が起きているのか」「自分たちは誰に何を届けているのか」を俯瞰して学ぶ必要がありました。
──そのような研鑽を積まれ、専務取締役まで務められた竹中さんが、何故、定年前に吉本を退職されたのでしょうか。
竹中: 僕らの仕事、「マネージメント」と言いますよね。タレントの管理をするのは「タレント・マネージャー」。新劇場や新番組、新施設を任されるのは「プロジェクト・マネージャー」などと。
僕の30年以上の社会人生活の中で、自分が自分自身のマネージメントが出来ていないことに気付いたのです。もう56歳になっていました。仕事の失敗も多かったですがね。やらねばならないことは全てこなしながら自分を成長させねばならないのですが、どこか不完全燃焼な状況の中に僕がいました。
「ここはもうボクがこの場からいなくなることだ」と決めてすぐに会社に退社を申し入れました。会社は大騒ぎでした。
ただ僕にも頑固な所もありますので、宣言から1ヶ月以内には会社を去りました。その後はニューヨーク・ハーレムでの生活を90日間堪能しました。肩書きを捨てて、一人の人間として異文化の中に身を置くことで、また新しい自分が見えてきたんです。

謝罪とは「未来の関係性」を作ること
──竹中さんは「謝罪マスター」としても知られています。数々の修羅場をくぐり抜けてこられましたが、現代人に必要な「よい謝罪」とは何でしょうか。
竹中: 多くの人が勘違いしていますが、謝罪のゴールは「頭を下げて許してもらうこと」ではありません。「壊れてしまった人間関係を修復し、以前より良い関係を築くこと」です。
広報時代、タレントの不祥事対応で学んだ鉄則は「スピードとファクト(事実)」です。不祥事が起きた時、人は「隠したい」「言い訳したい」という心理が働きます。でも、今の時代、隠し事は必ずバレます。だからこそ、第一報から24時間以内、判明している事実を包み隠さず話す。事件の要因は何か? それをしっかり解釈し反省しているのか、そして誰に何を詫びるのか、その順番は? などを相当なスピードで解明し行動に移します。それが「謝罪」ですね。
──仕事でのミスにも通じますね。
竹中: まったく同じです。怒られたくないから報告を遅らせるのが一番の悪手です。最近では「リベンジ退社」など嫌な話も聞きます。そこまで行くと逮捕されちゃいますけど。
「謝罪」とは、過去の事実は変えられないけれど、未来の関係性は変えられる唯一の手段です。相手が何に対して怒っているのか、何をしてほしいのかを冷静に分析し、誠意を持って「修復」を提案する。「ピンチをチャンスに変える」のが、プロの謝罪です。
刑務所の教室で教える「I love me」
──刑務所での「社会復帰支援」に力を入れられていると聞きました。
竹中: きっかけは、吉本時代に秋田刑務所へ慰問に行ったことです。予定外のトラブルで僕が80分間喋ることになり、とっさに「ここの施設には喧嘩っ早い人も多いと思うけど、喧嘩して得したことありますか?」と問いかけたら、空気が変わったんです。「男とはですね・・・。」とは東映映画の見過ぎのような話をしました。
そこで気づきました。「お笑い」のコミュニケーション術は、劇場だけでなく、社会の更生にも役立つんじゃないかと。
──授業では何を伝えているのですか?
竹中: 毎月1時間授業を4ハコ持っています。対象者は満期釈放日が決まり、娑婆に戻る前の約1ヶ月間、社会復帰の授業を受けます。メインテーマは「コミュニケーション」ですが、一番伝えたいのは「I love me(自分を愛すること)」です。
犯罪をおかす人の多くは、自分自身のことを大切にできていません。自分なんてどうでもいいと思っている。でも、「自分が好きじゃない人間が、他人を大切にできるわけがない」んです。受刑者たちに「自分史」を書いてもらい、過去の自分と対話させる。「あの時、親に愛されていたな」「本当はこんな夢があったな」と思い出してもらう。自分自身を取り戻すことが、更生への第一歩です。

竹中功にとって「プロフェッショナル」とは
──私どもは、プロとして活躍するシニアの方にインタビューさせて頂いております。竹中さんは年齢関係なく、今もなお、活躍されています。同世代に向けて一言お願いしてもよいですか。
竹中: 高田純次の名言ではないですが、「説教」「昔話」「自慢話」をしないということです。
それと年齢や性別を越え、皆がフラットな関係であることを事前に理解し、守れるということです。
どうしても年齢を重ねると、「昔はこうだった」と経験を語りたくなりますが、今の時代の正解は今の時代にしかありません。
若い人とも対等に、同じ目線で「面白いこと」を探せるかどうか。それが、シニアがいつまでも現役でいるための最大の秘訣ではないでしょうか。
よく「3人のレンガ職人」の話がありますよね。「何をしているのか」と聞かれて、「レンガを積めと命令された」「金を稼いでいる」「大聖堂を造っている」と答える話。
普通は「大聖堂を造る」という目的意識を持った人が称賛されますが、僕は、「4人目の職人」もいると思っています。それは、「レンガを積むのが死ぬほど好きなオタク」です。お金のためでも、名誉のためでもなく、ただただその仕事が好きでたまらない。そういう情熱を持った「オタク」には誰も勝てません。大聖堂を造るという高尚な目的でなくても良いと思います。それぞれがそれぞれの価値観で楽しめばよいと思います。
──様々な現場を渡り歩いてきた竹中さんにとって、「プロフェッショナル」とは何ですか?最後にお伺いさせてください。
竹中: 私の思うプロフェッショナルとは、「対価を得て仕事をした瞬間から、無限の責任を持つ人」のことです。
吉本の若手のイベントでは、出演料が一人が300円の時代もありました。でも、300円だろうが1万円だろうが、引き受けた以上は「プロ」です。「安いから手を抜く」なんてあり得ない。
1円でもいただいた瞬間に、アマチュアの甘えを捨て、準備と手入れを怠らず、目の前のお客さんを喜ばせる。
そして究極を言えば、プロフェッショナルとは「社会の役に立ち、人から好かれること」です。どれだけ技術があっても、独りよがりでは誰も助けられない。自分の仕事を通じて、誰かが笑ってくれる、誰かが救われる。そうやって社会という大きな「客席」の中に自分の居場所を作れる人が、本当の意味でのプロフェッショナルなんだと思います。
【プロフィール】
竹中 功(たけなか・いさお)
1959年大阪市生まれ。同志社大学法学部卒業後、1981年に吉本興業株式会社入社。宣伝広報室を設立し、『マンスリーよしもと』初代編集長を務める。お笑い養成所「NSC」の開校、映画製作、劇場プロデュースなどに携わる。
36歳、社会人として働きながら、阪神・淡路大震災の年に同志社大学大学院総合政策科学研究科に入学。「謝罪マスター」として数々の危機管理対応を行い、専務取締役などを経て2015年に退社。
現在は株式会社モダン・ボーイズCEOとして、企業の危機管理コンサルタントや執筆活動を行う傍ら、日本全国の刑務所で受刑者の改善指導(社会復帰支援教育)を行っている。著書に『よい謝罪』(日経BP)、『吉本興業史』(文春文庫)など多数。