インタビュー『高井 宣章』さん

行動の積み重ねが結果を生み出す。年齢は関係ない。

――今、何社くらいの顧問を勤めていらっしゃいますか。

そうですね。時々頼まれることがあり、現在数社ですね。顧問契約しているか、していないかもありますが、他にもいろいろ相談は受けることは多いですね。特に20代、30代のように50歳ほど年が離れている若手経営者からの相談も結構ありますが、年齢はあまり関係ありませんね。

――年齢関係なく働きたいと思う人が多いです。なぜ、高井さんは多くの人から声がかかるのですか。

自分のことはよくわかりませんが、新しい人と会うのがあまり苦ではないからですかね。むしろ同年代より若い人に会っている方が圧倒的に多いですよ。年齢が離れているのになぜ会話ができるか?とよく聞かれますが、年齢の差はあまり意識したことはありませんし、コミュニケーションが難しいと感じたこともありません。日々、自然体でいろいろな人に接し、相手の話をよく聞いていれば、ジェネレーションギャップを感じることなく対応できると思います。最近も高校の同窓会で54年後輩2名と知り合い、ランチをしたりしています。彼らから見るとニュースでしか見たことのない話を、私の体験を通して聞けることが面白いようですね。

――なるほど。どうすれば高井さんのようになれるのか。これまでのキャリアをお伺いしてもよろしいですか。

56歳まで日本航空に勤めていました。最初は羽田空港の国際線カウンター業務からはじまり、その後、運航部門でパイロットのスケジュール作成・管理。200名くらいのキャプテンを担当していました。航空法、社内の運航規程等に則り、周囲の状況がいろいろ変化する中で、スケジュールに関わるいろいろな業務に柔軟に対応する必要がある仕事でした。毎月、徹夜の仕事も結構ありましたが、若さで何とか乗り切ることができましたね。キャプテンの方々と結構緊密な人間関係を築きましたので、40年余が経過した現在でも、一定の関係は続いています。

その後、整備工場の管理部門。安全運航を守る航空機の整備には当然ながら最高レベルが求められます。整備の総務部門に10年余り在籍しましたが、航空会社にとって安全が追求すべき最高の価値であることを整備での仕事を通じて知りました。またJALは労使関係が少し複雑で、多くの労働組合とのいろいろな折衝をしましたが、そこでも人間関係を学びましたね。この時の経験により、人と話すことがあまり苦にならなくなったのかもしれませんね。 航空事故もありました。羽田沖の事故、御巣鷹山のジャンボ機事故。今でも当時のことをたまには思い出しますが、航空機事故は本当に痛ましい。その時の経験を決して風化させることなく、次代に継承していくことが不可欠だと思っています。その後、1988年に上海支店に赴任。翌年、昭和天皇が崩御され、世は平成になり、6月に天安門事件が勃発、日本はバブルの最高時期、まさに激動の時代でした。日経平均が最高値を付けたのは平成元年の年末だった。当時、中国はまだまだ貧しい大国だったが、人民は元気で活力があり、将来の大いに発展する予感を感じていた。1991年、再び羽田整備工場の総務課長として帰任した。パイロット部門、整備部門の双方を経験した者はかなり少ないが、私にとっては人との繋がりの上で貴重な経験だったと思っています。その後、関西空港開港後の旅客会社総務部長、運航本部乗員総務部長を経験し、最後の職場は今までとはかなり異なる領域の会社でした。JAL機内誌、カレンダー、機内エンターテインメント等の企画・制作、各種出版における広告業務などを幅広く担当する会社の総務担当役員を経験しました。JALは今から振り返っても、良い会社でしたが、会社の中にいろいろな不具合もあり、30年有余も経験しましたので、そろそろ潮時かと思い、早期退職の道を選択しました。56歳でした。

――56歳で次を決めずに会社を辞めたのですか。怖くなかったですか。

かなり急に退職しましたが、あまり悲観的な人間ではありませんので、何とかなるだろうと思っていました。勿論。直ぐには仕事は見つかりませんので、幅ひろくJAL以外の友人たちとの旧交も温めながら、日比谷図書館にもよく通っていましたね。しばらくして、友人からディップ(株)を紹介され、社外監査役に就任しました。当時のディップは、上場後2年のまだまだ成長途上の会社でしたが、まったく経験ない業界でしたが、将来に魅力を感じて誘いに応じました。創業社長のここぞという時の意思決定のスピード、社員を自宅に招いて食事をするなど、社員を大事にしていると感じました。上場10周年記念にハワイで社員総会を開催し、私も参加しましたが、なかなかのベンチャー企業だと感じましたね。 その後、JALが比較的短期間で再生し、30年余籍を置いた会社ですから、今もこれからも何らか役に立ちたいと強く考えています。いろいろな方面で人的ネットワークを広げている中で、友人からプロフェッショナルバンクの社外監査役の話をいただき、自身では監査役の柄ではないと思っていますが、勢いのあるヘッドハンティング会社だったので、お受けしました。人材業界の一角で航空業界をはじめとする、様々な業界の役に立てればと思っています。その中で今回の高橋啓くん(プロ人材機構社長)に出会いました。

――どうすれば高井さんのように活躍できますか。

人の縁の深さが大切だと思う。世の中には名刺の数が人脈だと思っている人が結構いますが、おそらく全く役に立たない。単に人を知っているのではなく、その人の人柄、背景なども知ることが大事。ゆっくり接し、時間をかけて相手を知り、人間関係を築くことが大切。自分のことしか考えない人がかなり多いが、相手の立場に立ち、何かあった時には共に行動することも大切ですね。人間関係には余り年齢は関係がないと思う。毎回同じメンバーで飲みに行っても、過去の話にしかならず、時には新しい刺激を求め、新たな関係性を深めていくことが大切だと思う。

――これからについて教えてください。

昨年の5月から関西(神戸)と東京の2拠点生活を始めている。文化の異なる2拠点での生活は結構刺激的で気に入っている。東京に圧倒的な情報が集まっているが、実は地方にも優秀な方もいて、素晴らしい技術を持った企業も沢山ある。東京は大手資本のチェーン店が多く、コンビニも非常に増えてきたが、地方には昔ながらの個性的な店が多い。インバウンド旅客がかなり増えている中で、関西と首都圏の良好な連携に何らかの役に立てればと思っている。神戸の自宅にも東京から結構多くの友人が訪れ、ワインで一杯、を楽しんでいる。若者も多く、また仕事も全く異なる人たちが集まり、語り合い、相互に良い刺激を受けている。将来性ある若者に自分の経験を伝えることにより、彼らにとって何かプラスになればと考えている。

編集後記

高井さんは航空業界のプロフェッショナルです。整備やパイロット組織まで幅広く経験している方は、多くはいないと思います。また、年齢問わず色々な人から必要とされるお人柄や関係性を深めていく力は、僭越ですが、激動の時代の中で培われたものだとお見受けしております。名刺の枚数が人脈ではないという言葉は、シニアへの期待値にそのままつながると考えます。知っている方と如何にして、関係性を深くし、維持していくか、これこそがシニアの方の強みだと感じるからです。

今回、起業するにあたって一番にお声をおかけしました。高井さんのように、相手の年齢関わらず懐に飛び込んで関係性を築き上げていくシニアの方の活躍を沢山見たいと思ったからです。シニアマーケット創出に向けて、お力添えのほど、よろしくお願いします。


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