インタビュー​「太田 颯衣」さん

NPO設立の背景と幼児事故予防への想い

―――――現在はNPOの代表でいらっしゃいますが

70歳になったときに、もうビジネスではない何か社会のお役に立てるようなことをしようと思って、「NPO法人とうきょう・はっぴーくらぶ」を立ち上げました。

この少子化の時代に、幼稚園などに行きはじめて、水泳の時間にプールで亡くなるという事故や家庭周辺の幼児の事故死が、先進国の中で日本はとても多いということを知りました。

こういった家庭周辺での事故が起きたとき、責任を追及されやすいのが日本の場合、圧倒的に母親なんです。母親だけに罪は無いのに、社会的にそういう風潮になるのですよね。この問題って、まだまだご存じの方が少ないので、幼児の事故予防についての理解を高めてもらうための活動、例えば幼稚園訪問をしたり、セミナーを開催したりという活動をしています。

キャビンアテンダントから秘書へ

―――――太田さんのキャリアについて教えて下さい

私の最初の仕事は19歳から日本航空のキャビンアテンダントです。
神戸で高校を卒業してから、2年間英語の学校に通って、貿易商社にでも就職出来たらいいなと思っていました。本当はスチュワーデスになりたかったのですが、それに対して父は猛反対でした。

そんな時に、友人が週刊誌に載っていた日本航空のスチュワーデス募集の記事を見つけて持ってきてくれました。父に内緒で応募して、一次合格の報せが来て、父親はびっくり、でも、結果的に、父親も応援してくれる中で採用されました。3年ほど勤めた後、同期の友人のお誘いで、国際興業のホノルル支店で2年契約で秘書をすることになりました。

日本に帰国した後のことを考えて報酬の面で良いのは、バイリンガルセクレタリーだと思い、ナイトスクールで英文速記を習得しました。そこから数社で秘書を長くやってきました。最後に長く務めたモービル石油では、社長秘書、英文月刊誌の販売担当マネジャーや研修などを行う教育訓練課長 や 広報統括課長も務めました。退職後はそのキャリアを活かして会社を立ち上げました。

ザ・ベスト・セクレタリー受賞の舞台裏

―――――1978年 “ザ・ベスト・セクレタリー”受賞

モービル石油に勤めていた時ですね。秘書としては、役員秘書・社長秘書など務めていましたが、モービルは全部個人秘書で。この賞を頂いた時、私にとっては、少々難しいタイプの上司でしたが、仕事だけはしっかりやると決めて、冷静に自分を見ていたと思います。

その時に心掛けていたことが、その上司について、アドバイスできるようなことがあれば、タイミングを見計らって、必ずきちっと伝えるってことです。

例えば、朝出社してきた新入社員がエレべーターホールで、上司に対して「おはようございます」と挨拶しても知らぬふりをしているということを耳にしたことがありました。そのような場合に、上司の機嫌のいい時に「新入社員が役員に勇気を振り絞って、朝の挨拶をなさるのですから、せめてうなずくぐらいのことはなさってくださいね」と笑顔で伝えます。上司に良かれと思っていることは、しっかりと伝えていました。

また、ある部長を呼んでと言われた時に、その部長はいつも遅刻気味の人でまだオフィスに来られていなかったので、「今日は区役所に立ち寄りされています」とちょっと嘘を言って、部長をカバーしたりしました。

上司と部下の関係で、何とかいい橋渡しができるようにと心掛けていました。お蔭様で業績評価も良くて、結果的にザ・ベスト・セクレタリー賞も頂きました。

女性のキャリアと社会の変化

―――――当時感じた女性のキャリアの壁とは?

私は当時にしては処遇にも恵まれていましたし、優秀な企業で働けていたので、大変ラッキーだと思います。とはいっても、私の会社員でのキャリア最後は、広報の統括課長でした。部長職にはなれなかったのは少々悔しかったですよね。まあ、実力不足なのでしょう。

私は秘書(管理職扱い)出身の課長として異動、最初のころは男性課長とずいぶん扱いに差をつけられましたが、地道に仕事をしていて、少し経つと全く同じかそれ以上に処遇してもらえました。その当時の社会の風潮もあるし、女性なんかを認めたくないという気持もあったのだろうなって思います。でもその時の経験が私の血となり肉となって、お蔭様で、今があるのかなって思っています。

―――――今、女性が働く環境について思うこと

今は女性にチャンスはいっぱいあります。私自身は経験してないけど、子育てと キャリアウーマンライフを両立していくっていうことは本当に大変だと思います。なんとか頑張って続けてほしいし、続けやすい社会になってほしいですね。働き方改革の制度を活用して、夫婦や周囲の皆さんで、お子さんを育てられたら良いなって思います。

女性は一度仕事を辞めると再就職が大変かと思いますが、とにかく自分に実力をつけて、どこに行っても企業側と交渉ができるような態勢に持っていくことが大切だと思います。性別に関わらずみんながやりたいことを、働きたい気持ちを叶えられる社会にもっとなるといいですね。

何かを始めるのに遅すぎることはない

―――――これからの夢

私はいつも先のことを考えていました。30代に60歳を過ぎたら働かなくて良いように経済的に自立をするという目標を立てました。実際今はそのようになっています。これからも人生を楽しむということが一番の目標です。それには健康第一です。

今年年女ですが、まだ車の運転をしてゴルフにも行っていますが、これがいつまで続くかわからない。ゴルフの他にも長唄は40年続けています。また、合唱団に所属し、大きな声で歌っています。

そして、俳句も長く楽しんでいます。旅行も大好きです。いつか身体の動きが悪くなる時が来るでしょう。最近、競馬にも興味が湧いてきました。動的な趣味と静的な趣味と両方あれば、応用がききます。月に1度我が家で麻雀もしています。

これからも好奇心を持ち続けて、お仲間と一緒に楽しい日々を過ごせたらというのが私のささやかな夢です。

【Never too Late】何かを始めるのに遅すぎることはないと昔からずっと思っています。上にも書きましたが、好奇心を持ち続け、年齢を考えずに「先ず、やってみる!」趣味でも、奉仕活動でも、また、社会とかかわりを持ち続けることが心身共に若さをキープできるコツではないかなと思います。

編集後記

太田さんは、日本女性の多くが家庭に入っていた時代に、長いキャリアにブレーキをかけることなくキャリアを積み重ねてこられました。職場に恵まれていたとお話しされていますが、現代女性が直面する社会での働き方とは大きく異なる状況を想像すると、多くのことをご自身で切り開いてこられたのではないかと感じます。それも、どんな内容もチャーミングな笑顔でお話しされる太田さんだからこそできたのだと思います。

聞き手:三須亜希子(フリーアナウンサー)


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